結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことにより、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。 カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税のused trucks for sale を徹底化させている。さらに、住民を、キリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させてフランク化もおこなった。カールはまた、広い領土を支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともにその世襲を禁じた[2]。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。 カール大帝像(ベルギー、リエージュ)しかし、used truck for sale されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた[3]。それは、絶えず領内を移動して、伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。 父ピピン3世(小ピピン)とともに遠征した南西フランスのアクイタニアでは、土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。 カールはこのほか道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなっている。 なお、カールは「ヨーロッパの父」と呼ばれ、現代におけるEU統合はしばしば「カールの帝国の再現」と称されることがある[4]。 カロリング・ルネサンス 不用品回収 大聖堂内政においてカールは、アインハルト(エギンハルドゥス)やアングロ・サクソン人で宮廷付属学校の校長となったアルクィン(アルクィヌス)、スペインのテオドゥルフ、イタリアからはピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど内外から高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘し、一般にカロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を企図した[5]。 それは、王国の維持に必要とされる聖職者や官吏を養成するという色合いの濃いものであり、used trucks のエリート層のみを中心とする閉鎖的な性格を持っており、修道院文化としての限界をもつものであったため、通念としての「ルネサンス」の名を冠すことについては適切ではないとの異論もある。ただし、中世西ヨーロッパにおける最初の大規模な文化運動、また古典古代の学芸を存続しようとする動きの一環として無視できない重要な意義を有している。 正確には、カールが強力な軍事力で東はエルベ川から西はピレネー山脈を越えてエブロ川、北は北海沿岸から南は中部イタリアに広がる広大な土地を支配するに至った目的は、教父哲学におけるキリスト教の伝承と合致したかたちでフランク人の社会を変革してゆくことであった。教会の学問を世俗政府の中枢において営み、伝道を実現しようとしていたのである。中世において学芸は政治と深く関わっており、政治と宗教は切り離せないものであった。 1978年に世界遺産に登録された粗大ごみ 大聖堂(ドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州)はしばしば「皇帝の大聖堂」(ドイツ語:Kaiserdom)と呼称される。786年にカールがアーヘンに宮殿教会の建設を始めたもので、現在の大聖堂は805年完成の八角形の宮廷礼拝堂に1414年のゴシック様式の聖堂を併設したものである。 なお、ブドウ栽培をガリアの地に広めたのもカールだといわれている[6]。 カールの戴冠 Jean Fouquet,「カールの戴冠」(1455-1460)カールは、800年11月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサに列席するため、長男カール、高位の聖職者、伯、兵士たちからなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇よりじきじきの出迎えをうけた。そして、サンピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、教皇はカールを大聖堂のなかへ導いた[7]。 800年12月25日の午前中のミサで、ペトロの墓にぬかずき、身を起こしたカールに、教皇レオ3世(在位:795年−816年)は「ローマ皇帝」(神により加冠されし至尊なるアウグストゥス、偉大にして平和的なる、整体師 帝国を統治するインペラートル;serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium)として帝冠を授けた[8]。このとき、周囲の者はみな、「けだかきカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」[9]と叫んだという。なお、レオ3世は前年(799年)、対立する勢力に命を襲われ、カールのもとに逃げ込んだことがあった。カールの戴冠は、教皇をたすけたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、東ローマ帝国への対抗措置でもあったのである。 ただし、この「used truck 」については教皇レオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サンピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。コンスタンティノポリスの東ローマ帝国は、皇帝の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった(そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでにはまったくなかった)。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の僭称にすぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための皇帝補任運動を繰り広げた。カールは、彼自身が東ローマの女帝エイレーネーと結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、女帝エイレーネーの死後の812年にようやく両者の間で妥協が成立[10]し、東ローマはカールの帝位を認めた。その代わりカールは南イタリアの一部と商業のさかんなヴェネツィアを東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、東ローマ側としてはローマ皇帝(ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみで、カールには単なる「皇帝」としての地位しか認めていない[11]。つまり、同じ皇帝でも、東ローマ皇帝が格上、カールは格下という建前を崩すことはなかったのである。 ただ、そうだったとしても、西欧的立場から見るならば、これまでは地中海世界で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っていた。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは、西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立[12]を象徴することでもあったとされている。