2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死した[6]。 その首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。獄門が歴史上で確認される最も古い確実な例が、この将門である。 この将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「資産運用 」と呼ばれる。 評価の変遷 平将門の首塚関東一円では、武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという将門は、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間、逸話や伝説として人々に語り継がれている。これは、将門が、重い負担を強いられ続けられた東国の人々の代弁者として捉えられた為だと考えられる。 中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こることがあり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるため、時宗の遊行僧・真教によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。 神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には幕府により、平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。 また、投資信託 の朝敵としての汚名は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により、除かれている。 なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」は、首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説もあるし、坂東市内の胴塚周辺の地名は「神田山(かどやま)」である。 明治維新後は、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして明治7年(1874年)には、教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。 第二次世界大戦終結後は、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな外国為替証拠金取引 を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに昭和59年になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。 このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。最近ではより学術的な面からの研究が期待されている。 伝説 将門伝説の研究者である村上春樹(元高校教諭の郷土史家、同名の小説家とは別人)は将門伝説を以下のように分類している。[7] 調伏伝説 千葉県成田市の成田山新勝寺は、東国の混乱をおそれたFX 天皇の密勅により海路(陸路は日数を要す)下向した寛朝僧正が、対将門勢の士気を鼓舞するために祈祷を行ったとされる場所に、言い伝えによって建てられた寺院である。このため、将門とその家来の子孫は、1080年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある佐倉市将門に古くから住む人々も、参詣しない家が多く残り、かつて政庁が置かれた坂東市の一部にも参拝を良しとしない風潮が残るとされる。築土神社や神田神社(神田明神)の氏子も、成田山新勝寺へ詣でると、産土神である平将門命の加護を受けることができなくなるとの言い伝えにより、参詣しない者が多い。大河ドラマ「風と雲と虹と」の出演者も、成田山新勝寺の節分豆まきへの参加辞退をした。 首の伝説 「史蹟神田神宮」京都市下京区新釜座町(四条通西洞院東入ル)には、民家に埋もれる様にして小さな祠がある。「天慶年間平将門ノ首ヲ晒(さら)シタ所也(なり)」と由緒書きにはある。 言い伝えでは討ち取られたFX は京都の七条河原にさらされたが、何ヶ月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、歌人の藤六左近がそれを見て歌を詠むと、将門の首が笑い、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始め、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言った。声は毎夜響いたという。そして、ある夜、首が胴体を求めて白光を放って東の方へ飛んでいったと言い伝えられ、頸塚は京都にはない。その武勇は死んだ後まで洛中を震え上がらせたという。 この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが東京千代田区大手町の平将門の首塚である。この首塚には移転などの企画があると事故が起こるとされ、現在でも畏怖の念を集めている。 御首神社に伝わる話では将門の首は、美濃の地で南宮大社に祭られていた隼人神が放った矢によって射落されてしまう、落ちた場所に将門を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。 昭和の終り、東京の霊的守護をテーマに盛り込んだ荒俣宏の小説『帝都物語』で採り上げられるなどして広く知れ渡ると、「東京の守護神」として多くのオカルトファンの注目を集めるようになった。 将門一族の伝説 遅くとも建武4年(1337年)には成立したと見られている軍記物語『源平闘諍録』以降、将門は日本将軍(ひのもとしょうぐん)平親王と称したという伝説が成立している。この伝説によると将門は、妙見菩薩の御利生で八カ国を打ち随えたが、凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門の伯父にして養子(実際には叔父)の平良文の元に渡ったとされる。この伝説は、良文のくりっく365 を称する千葉一族、特に伝説上将門の本拠地とされた相馬御厨を領した相馬氏に伝えられた。 「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、板東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した源頼朝を投影したものだとする関幸彦の指摘がある。 藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、生没年不詳)は、平安時代前期〜中期の武家・武将。 概要 藤原北家の魚名の後裔と伝えられ、下野大掾藤原村雄の子。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ」「たわらのとうた」)の名字で知られる。官位は従四位下、下野守兼武蔵守鎮守府将軍。室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野、武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏、平氏と並ぶ武門の棟梁として、多くの家系を輩出した。死後、贈位を受け、贈正二位。 経歴 出自を藤原北家魚名流とするのが通説だが、「実際には下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もある[1](あるいは古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓とする)。 俵藤太(田原藤太)という名乗りの初出は『今昔物語集』(巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」)であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。田原藤太の由来説には、相模国淘綾郡田原を名字の地としていたことによるとする説、幼時に京都近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説などがある。 秀郷は下野国(現在の栃木県)の在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(18?)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[2]。更にそのわずか2年後の929年には、乱行のかどで下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。 天慶2年(939年)平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、平貞盛と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[3]。この功により同年3月従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守、鎮守府将軍も兼任するようになった。 百足退治伝説 龍宮城で百足を射る藤原秀郷、明治時代の浮世絵師・月岡芳年による版画近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。その夜、美しい娘が藤太を訪ねた。 娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間藤太が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものであった。娘は龍神一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は快諾し、剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、三上山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。