最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。藤太は龍神の娘からお礼として、米の尽きることのない俵などの宝物を贈られた。また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、将門を討ち取ることができたという。 秀郷の本拠地である下野国には、日光山と赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城明神を猿丸太夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。 また類似した説話が宇都宮(下野国)にも現存する。即ち俵藤太が悪鬼・百目鬼を討った「百目鬼伝説」であるが、これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。 「三上山を7巻き半と聞けばすごいが、実は8巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。これは古典落語「矢橋船」などで用いられている。 源 義家(みなもと の よしいえ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の源頼信の孫。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、そして室町幕府の足利尊氏の祖先に当たることから後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その先物取引 や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求めるが、朝廷は「私戦」として官符を下さなかった。 その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許されたが、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条に「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人、甘心せざるの気あるか」と書く。 その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は新興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。 生涯 [編集] 出生と没年 生没とも諸説あってはっきりしないが、68歳でFX とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』1106年(嘉承1)7月15日条から逆算し、1039年(長暦3)の生まれとする説が有力である。 源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壷井(現大阪府羽曳野市壷井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。幼名は不動丸、または源太丸。七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。 前九年の役から下野守まで 鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定する。 しかし、『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原家衡の乳母の千任に、「なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍・清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり。」といわれて激怒したことが載っているが、「名簿」(みょうぶ)を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。1063年(康平6)2月25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。 しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌年朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。ただしそれが承認されたかどうかは不明である。尚、この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。 1070年(延久2)義家はFX となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶養略記』8月1日条に見える。当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。この件に関して野口実氏は義家陰謀説も出されている。 白河帝の爪牙 1079年(承暦3)8月 美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗(清和源氏満正流4代)を官命により追討。 1081年(永保1)9月14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補(『扶桑略記』)。その年の10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。未だかつて聞かざる事也」と書かれている。 同年12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。のちの「北面の武士」の下地にもなった出来事である。この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。 後三年の役 『後三年合戦絵詞』の「雁行の乱れ」で、待ち伏せを見破られた清原軍1083年(永保3)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。朝廷では1087年(寛治1)7月9日に「FX 」の官使の派遣を決定した事実も有る事から、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。 後三年の役において動員した兵は、石井進の国衙軍制の概念[1]にそって分類すれば、国守軍の「館の者共」、つまり受領国守の私的郎党として動員した近畿から美濃国、そして相模国の武者(大半は側近、または京でのコネクションを思わせる辺境軍事貴族)と、清原氏勢力外の陸奥南部の「国の兵共」。「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国の吉彦秀武の軍からなると思われる。 最終局面での主要な作戦が吉彦秀武から出ていること、及び前九年の役の例を勘案すれば、最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「不動産 」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。 1087(寛治1)11月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破り、12月、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年1088年(寛治2)正月には陸奥守を罷免される。 何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととの」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る(『中右記』1096年(永長1)12月15日条、1097年(永長2) 2月25日条)。当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。