また田中文英は1997年に書いた論文「河内源氏とその時代」(『院政とその時代』に収録)において、義家が立荘して摂関家に寄進し、自らは預所となってそれを子の左衛門尉義時が受け継いだものかと推測する石川荘が、かなり広い地域の中に散在する数町から小さいものでは数段、つまり数十石から数石ぐらいの田畑の寄せ集めの様相を示していることを紹介している。 1091年(寛治5)6月の義家の郎党と義綱の郎党の河内国の所領の領有権争いは、こうした小さな単位の田畠をめぐって争われたものと思われる。この傾向は近畿一帯に共通する性格であり、12世紀中頃以降の東国などに見られる大規模寄進系[荘園と同一視することは出来ない。 『後二条師通記』と『百錬抄』 次ぎに、「義家に対して随兵の入京禁止令」「日経225 への土地の寄進禁止」であるが、これは、1091(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と義綱の郎党藤原則清、河内国の所領の領有権を争いから、源義家・源義綱が兵を構える事態となり、京が騒然としたことに関する当時内大臣・藤原師通の日記『後二条師通記』と、鎌倉時代後期に、それまでの諸日記を編纂した『百錬抄』(ひゃくれんしょう)に見える記事である。 両史料は片方は一次史料であり、もう片方は約2世紀も後での2次史料である。「義家に対して随兵の入京禁止令」といわれるものは『百錬抄』の「前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること…を停止」であるが、同じ事実を『後二条師通記』には「諸国国司隋兵留めらるべきの官符」とある。 「諸国国司隋兵留めらるべき」は「義家に対して随兵の入京禁止」とは全く異なる。 もうひとつの「義家への土地の寄進禁止」は『百錬抄』には同じ寛治5年6月12日のこととあるが、『後二条師通記』にはその記述は無い。かわりに翌年の寛治6年5月12日条に義家が構立した荘園が停止されたことが記されている。 この件は、安田元久も『百錬抄』には疑いを拭いきれないようで、1974年の『日本の歴史(7) 院政と平家』の中で「もし『百錬抄』にいう措置がとられたのであれば、それは左大臣俊房以下の公卿たちが、関白師実とともにとった処置であって、上皇の意志からでたものではなかったことになる。」と微妙な書きかたをしている。 関白藤原師実は『後二条師通記』の藤原師通の父であり、藤原師通はその公卿議定に内大臣として出席しており、外為 の公卿の日記の書き方から『後二条師通記』寛治5年6月12日条はその翌朝に書かれたものと推察できほぼリアルタイムとみなしてよい。もし『百錬抄』にいう措置がとられたのであれば、左大臣が白河法皇に上奏し、院の意向が公卿議定に伝えられた後に関白が介入したことになるが、当時の官奏の手順から不自然感を免れない。もしあったとすればその関白の息子である藤原師通がその変則介入を日記に書かないなどということがあるだろうか。安田元久の疑いはその点にも及んでいると思われる。 この件に関して、先物取引 は1994年の『武士の成立』で、約1年を隔てた2件の事柄をまとめて編集してしまった可能性があると指摘している。 尚、以下は元木氏の指摘ではないが、『百錬抄』の編者の認識の誤りはこれだけではない。もう一件は一次史料である複数の公卿の日記と相違している。 後三年の役の恩賞 尚、後三年の役の勝利にも関わらず恩賞が与えられなかった点に関しては、本来朝廷の命令(官符)無しに合戦を起こすことは当時でも違法行為であり、合戦の途中においても「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定したりしている。従って追討の事後承認を求めたのに対して、これを拒否したのは不思議ではない。 更に当時は「財貨」であるより以前に、朝廷の諸行事の装飾の貴重にして重要な材料であり、ほとんど陸奥からしか手に入らなかった砂金の「不貢金」を起こしている。これは租税未収以上の、朝廷の諸行事に支障をきたす大問題であり、そのために朝廷の公卿議定で議題にあがっている。 受領の勤務評定である受領功過定を10年も通らなかったのは当時の制度にそった処置であり、義家だけがそうであった訳ではない。白河院が院近臣であった国守を、受領功過定を経ずに同じ国でそのまま重任(他国に転ずるより利益は大きい)させようとしたのを藤原師通が猛反対して諦めさせたことまである。 その官物未進の決着に10年がかかるが、それがやっと完済できたのかどうかは記録が無いが、その合格は内大臣藤原宗忠の日記である中右記・承徳2年正月23日条には「件事依有院御気色也」、つまり白河法皇の意向であったことが記されている。 伝承の世界 前九年の役のとき、1057年(天喜5)11月に投資信託 の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎となって逃れたが、その戦いの中で「将軍の長男義家、驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。白刀を冒し、重圍を突き、賊の左右 に出でて、大鏃の箭を以て、頻りに賊の師を射る。矢空しく発たず。中たる所必ず斃れぬ。雷の如く奔り、風の如く飛び、神武命世なり」。と『陸奥話記』にある。 同じ『陸奥話記』には、その後、清原武則が「君が弓勢を試さんと欲す。いかに」と問うと、義家は「善し」と。そこで武則は「堅き甲(かぶと:と読むが鎧のことか)三領を重ねて、これを樹の枝に懸る。義家は一発にて甲三領を貫かせしむ。」武則は大いに驚いて「これ神明の変化なり。あに凡人の堪える所ならんや。宜しく武士の為に帰伏する所、かくの如し」。と語ったという逸話がも残る。 義家が2歳のときに用いた「源太がFX 」という鎧と、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったことから「髭切」と名付けられた刀は、河内源氏嫡子に伝えられる宝となり、後の平治の乱では源頼朝が用いたという逸話が鎌倉時代初期の『平治物語』にある。これは源頼朝が源氏の嫡流であると印象づけるための創作といわれている。 鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』には前九年の役の後、捕虜となったのち、家来とした(事実ではないが)安部宗任との話がいくつかあり、射芸に秀で、意味もなく動物を殺そうとしない優しさ、更に射た矢を取ってきたかつての敵・安部宗任に背中を向け、背負った矢入れに入れさせた剛胆さ、更には神通力まで備えた超人的な武士として描かれている。 しかしその一方では以下のような伝承も残されている。 京の義家の屋敷の近所の者が、ある夜に義家が鬼に引きずられて門を出て行く夢を見た。そこで義家の屋敷を覗うと、屋敷の中では義家が死んだと大騒ぎになっていた。あれは義家が地獄に引きずられていくところだったに違いない。 父頼義も殺生の罪人で、本来なら地獄に堕ちるべき人間である。前九年の役で切り落とした首は1万八千、その片耳を取り集めて、乾して皮古二合に入て上洛した。しかし、後年仏門に入って、その耳を堂(京・六条坊門北の耳納堂)の土壇の下に埋めて弔い、自分の殺生を悔いたために最後は成仏できた。しかし義家は罪も無い人を沢山殺して、それを悔いるところも無かったので無限地獄へ堕ちた。(『古事談』) 今様狂いの後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」はそのような言い伝えを反映しているものと思われる。 それらの伝承は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのものであるが、同時代の藤原宗忠がその日記『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記したことも合わせ考えると、それらの説話も、個々には事実ではあり得ないが、しかし当時の京の人間の義家観として、義家の実像の一面を伝えているようにもとれる。 後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、義家は河内国石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。ただし平安時代末期の『奥州後三年記』にはその記述はない。後世では、東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなったというのは、主に南北朝時代の末に、義家の子孫である足利幕府の正統性をうたう為に書かれた『源威集』にある「諸家輩、源家将軍ヲ代々仁王ト奉仰ハ此故也」からの派生。